読んだ本#44~透明人間の告白~

 かつて本書が翻訳刊行された当初、本の雑誌の目黒考二さんは「十年に一度の面白本」とタイコ判を押しており、椎名誠さんも大いに頷いておられた。そして時は流れ“本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30”にて本書は再びベスト1に輝くというマシンロボクロノスの大逆襲を見事果たしたのであった。
 新潮社からハードカバー版が最初に出たのは1988年。もうじき本当に30年が過ぎ去ろうとしているが、確かに30年経っても読むに耐える傑作でありますよ。

 透明人間の告白
 

 誰もが抱くであろうたわいない空想、「もしも空が飛べたら」「もしも大金が手に入ったら」そんな夢想シリーズの定番の一つに間違いなく「もしも透明人間になれたら」は含まれるであろう。ウェルズ先生の小説や映画の包帯男を紐解くまでもなく、透明であることのアドバンテージと人々が抱く憧れは想像に難くない。TRPGユーザならインヴィジビリティやインヴィジビル・ストーカーの脅威を思い浮かべてもらえれば速やかに理解してもらえるであろう。3eの説明文を読んで、「吊り橋の縄を切るのは攻撃ではないのでインヴィジビリティの呪文は解けない」とかなんて酷いことを考えるんだこの野郎はなどと震え上がったもんですたい。
 が、一時的に透明になるだけならともかく、ずっと透明であるパーマネンシィを使ったインプルーヴド・インヴィジビリティみたいなもんやね)場合、果たしてその人間が享受できるのはアドバンテージだけだろうか? 透明人間は場合によっては体のみが透明で、服を着ると宙に浮いているように見えてしまうため、透明の利点を活かすためには全裸でないといけないとかセクハラ案件もある。真冬とかだったらそれだけでもう透明の利点は死んだも同然。そうでなくとも、例えば透明人間がメシを食った場合、それらの食物は一体ハタからどう見えるのか? 透明なまんまの人間は日常生活に適合できるのか?
 こういう、「なったはいいが次々に浮かび上がる素朴な疑問」にいちいち応えてくれるのが本書の傑作たるゆえんだろう。前述の目黒さんは「透明人間の暮らしの手帳」と形容したそうだが、まったくウマい例えをしてくれるものです。主人公のニック=ハロウェイはかなりマッドな科学者の起こした事故に巻き込まれて透明人間になってしまう(余談だがこの事故を引き起こした若僧と、スクープを優先してニックを探しもしやがらない女記者を見ると「やっぱ学生運動とマスコミってクソだわ」と思える)のだが、この時身に着けていた衣服、事故の現場である施設とその一帯に存在していた机やカーテン、タオルや歯ブラシなどの日用品ごと透明になってしまう。透明であるために全裸にならねばならない恐れはないわけだが、実はそれより遥かに恐ろしい現実にニックはすぐに直面する。ミソは「身に着けていたもの」まで透明になったということ。即ち、メモを取ろうとしても、手帳に書いてあることは透明なんだから読むことが出来ず、ペンで書こうと見ることもできないのだ。D&Dのインヴィビリティは他人の目からは透明になっているからまだいいが、自分の目からも見えないということはおっそろしい窮地に立たされることでもあるのだ、とここが筆者最大の驚愕のポイント出会った。これぞ目ウロコ本(目から鱗がバラバラと落ちるような本のこと)。
 襲いかかる現実はそれだけではない。メモを取ることができないのはもちろん、例えばアドレス帳から友人に助けを求めようとしても、そこに書いてある番号が見えないのだから電話は全て記憶力でかけなくてはならない。サイフから札を取り出そうとしてもどれが何ドル札なのか区別できない。そもそも透明な人間がどうやって買い物をすればいい? さらに透明な人間が街を出歩くことが、いかなるリスクを生むか、ニックは身をもって体験することになる。横断歩道を渡る時は細心の注意を要求される。ドライバーからすれば、無人の道路なのだからスピードを緩める気など起きるはずもないのだ。雨の日は自分の身体が雨に濡れるところだけが浮かび上がり、好奇心に誘われた子供に追い回される。そして、石を投げつけられケガをしたところで、その度合いを調べるには自分の手さぐりに頼るしかない。医者に行こうにも、見えない傷をどう治療してもらう?
 もう一点、ニックが頭を大いに悩まされる問題がある。透明人間が食事をした場合、完全に血と肉、それに排泄物になるまでの過程、咀嚼され、喉を通り、胃で消化され……という人体のメカニズムがばっちり外から観察できてしまうのだ。このグロ画像を人目から隠すため、ニックは食べ物を極力選び、消化されない恐れがあるものは徹底的に避け、そして食事にありつくときは人のいない場所と時間を選ばざるを得なくなる。理由は後述するが、透明になったニックは自分のヤサに居つくことが出来ず、各地を転々としなければならないので、メシはどこぞに忍び込んで失敬するしかないのである。
 透明人間になれたら……とは、前述の通り誰もが夢見る望みであるが、こうしてみるとそんなに良い事ばかりではないと気付かされる。少なくとも「一時的に」かつ「他人の目からのみ透明に見える」この二点が満たされていない限り、理想の透明人間とは言えそうにない。第一、透明であるというメリットの筈の特徴も、ぶつかったりしたら何か変なモノがあるとバレるんだから、こっちから接触は極力控えなければならない。つまり存在が見えないのに存在を消さなきゃいけないので、むしろデメリットなのだ。また普通の品物、例えばメモ帳とペンなら普通に書きつけ見られるものの、宙に浮いたメモ帳にこれまた宙に浮いたペンがサラサラと書きつける、非常に奇妙な絵面が展開される。消えているはずの存在が、より鮮明に存在を主張し始めやがるのだ。こっそり宝石店に入り込んで宝石を失敬するなんて、こう考えると出来やしないとすぐに気づかされる。
 人間共通の願望でありながら、実現した場合は決して望み通りにならない、この鋭い観察力と発想はまさにコペルニクス的転回。クラシックかつ先人が強烈なイメージを植え付けた透明人間という題材を扱いながら、活字狂のお二人を耽溺せしめたのも納得である。モノが透明人間だけにまさに盲点、死角からの一撃であった。透明人間だけに(ちょっとウマいこと言ったつもりのムカつく顔)。四年がかりで取り組んだ労力は十分に報われたと言えよう。余談ながら本書以降作者のセイントは作品を発表しなかったそうだ。
 ニックは透明になったのを知られたが故に、情報機関に追い回されるハメになる。アパートをおん出されたニックは空きアパートや馴染みのクラブを転々として満足に食事や睡眠も取れない状況に陥る。買い物も満足にできない人間はどうやって生活を維持していけばいいのか? この難題をニックは証券アナリストの経験(序盤で出てきたこの設定は伏線なので覚えておくといいだろう)とニューヨークの不動産の利用状況を分析することで乗り越えていく、この対処法もリアリティに厚みを持たせているのだが、なんといってもニック最大の強みは超ポジティブ思考。どんな苦境にあろうと「大切なのは動きつづけることだ」と前進を絶対にやめない。この身の回りなんもかんもが透明になるという惨事に巻き込まれようと、決してへこたれず諦めずのドッ根性があるからこそ、最終的に情報機関をヘコませ自由を勝ち取ることができたのだろう。やはり人間飛ぶか留まるか迷ったら飛ぶしかないんである。
 ニックの状況が大いに好転するには好奇心旺盛な女性・アリスとの出会いがあり、協力者を得るとこうも透明人間であろうと日常生活を送るのは容易になるのか! とニックともども読者も目が覚める思いであるが、そのきっかけが下半身というのは何とも海外小説らしいというかなんというか。まあ金輪際他人との肉体的接触なんて自分にはあり得ないだろうと絶望していただけに、そういう欲求が湧くもの致し方なし、という気もしないでもないのだが、やはり社会戦で抹殺されかかっている時に頼れるのはビジネス仲間よりも関係:肉体スートということか!? そういえば透明であることを活用できた数少ない場面は情報機関からの脱走はもちろんであるが、セクハラもそうであった。こうして考えてみると、透明人間になってやってみたいことで十中八九思い浮かべるであろう覗き趣味というのは万国共通なんだなと安心させられる。解説だとアリスとの出会いがもっと早い方が良かったという指摘があるが、確かにアリスという協力者を得たニックがハロウィン・パーティやスキー場を大いに楽しむ解放感はしみじみと読んでる方にも喜びを伝えてくれ、もっとこういう日々も見てみたかった気もする、とフォローは入れておこう。
 情報機関との丁々発止は本書の見所のひとつながら、セキュリティや監視体制が向上した現代では流石に通用しないだろう(空アパートを転々としたり、クラブの鍵を漁ったりするシーンは良くも悪くもまだのどかな時代)。ここんところは古さを否めないが、逆に現代版の『透明人間の告白』が執筆されたとしたらどうなるのか、気になる。スマホがあれば大抵のことができちゃう現代なら生きていくこと自体は難しくないかもしれないが、市井の人間だろうと住所特定されたりする監視社会だと、宙に浮いてるスマホとか即行で拡散されそうだな。
 ちなみに、読んでいて感じたが椎名さんの執筆するサバイバル小説や超常小説、『走る男』、『デルメルゲゾン』はこれに相当影響されていると感じた。次から次へと襲い来るトラブルに細やかに対処していく解決策の提示、また何か一つが狂ったらその世界はどんなことになるか、そうした疑問にひとつひとつ応えていく丁寧な姿勢は、まさに本書で提示されていた面白さ。後の基盤になったと考えてもおかしくありますまい。
 
 ニックの披露してくれたサバイバル術(実際に顔を合わせずに講座を開く方法、電話のみで株を売買する方法など)は役に立ちそうであるが犯罪者でもそうそう役に立てられそうにない、それこそ透明になった人間でもなきゃ意味がないのが残念な限りである。D&Dで「自分の目にも映らないインヴィビジビリティ状態になる呪い」とか出してみようか。うーむ、自分にとっても他人にとっても恐ろしい呪いだな。
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